多くの労務担当者は定型業務に追われ、膨大な事務処理に時間を奪われ、本来向き合うべき戦略的な課題に手が回っていないという悩みを抱えていると思います。

しかし、この状況は急速に変わりつつあります。AI技術の導入で定型業務の自動化が進み、労務担当者の業務時間に大きな変化が生まれているのです。ある製造業では、AI導入により労務業務の30%を自動化し、担当者1人あたり週10時間の余裕が生まれたといいます。

問題は、この「新たに生まれた時間」をどう活用するかです。単に他の事務作業に充てるのではなく、企業の競争力強化につながる戦略的な業務にシフトできるかどうかが、今後の労務部門の価値を左右します。本記事では、実際の企業事例を交えながら、AI時代の労務担当者が果たすべき新たな役割について解説します。

現場観察で見えない課題を発見する

AI導入で時間的余裕が生まれた労務担当者が真っ先に取り組むべきは、これまで手が回らなかった「現場」への関与です。これは単なる職場巡回ではありません。データでは見えない組織の実態を把握する、極めて戦略的な活動なのです。

あるIT企業では、労務担当者が週2回、各部署を回る「現場確認」を開始しました。きっかけは、AI化により生まれた週8時間の余裕時間の有効活用でした。当初は何を観察すべきか明確でありませんでしたが、3か月後には驚くべき成果が現れました。

職場環境の問題発見が第一の効果です。データ上では問題のなかった部署で、実は古いパソコンが業務効率を大幅に下げていることを発見しました。また、リモートワーク中心の部署では、自宅の作業環境が不十分で肩こりや目の疲れを訴える社員が多いことが判明しました。これらは勤怠システムには現れない「隠れた生産性阻害要因」でした。

メンタルヘルスの早期発見も重要な成果です。AIは残業時間の異常値は検知できますが、「表情が暗い」「声に元気がない」といった変化は人間の目でしか捉えられません。この企業では現場確認により、うつ症状の前兆を3件早期発見し、深刻化を防ぐことができました。

信頼関係構築による情報収集効果も見逃せません。労務担当者が定期的に現場に顔を出すことで、従業員との心理的距離が縮まります。結果として、「実は上司とうまくいかない」「この業務、もっと効率的なやり方がある」といった、正式なルートでは上がってこない貴重な情報が集まるようになります。

現場での観察ポイントは、環境・健康・人間関係の3つに整理できます。重要なのは、単に見て回るだけでなく、観察した内容を記録し、改善につなげる仕組みを作ることです。月1回の「現場レポート」で経営陣に状況を報告し、具体的な改善策の実行につなげる企業も増えています。

データと対話で問題を予防する

AIによるデータ分析能力と現場での人間的洞察を組み合わせることで、労務担当者は「問題が起きてから対応する」という受け身の姿勢から、「問題を未然に防ぐ」積極的な役割へと転換できます。この予防的アプローチこそが、AI時代の労務管理の真骨頂です。

能動的なリスク管理の例として、AIが勤怠データから「連続7日以上の休日なし」「月80時間超の残業」といったリスクパターンを自動検知します。しかし、データだけでは「なぜそうなったか」はわかりません。

そこで労務担当者が該当者と直接面談し、背景を探ります。多くの場合、単純な人手不足ではなく、「特定の技能を持つ人に作業が集中している」「効率的な作業手順が共有されていない」といった構造的な問題が浮かび上がります。この企業ではこうした分析により、スキル研修の充実や作業マニュアルの整備を進め、労働時間の適正化に成功しました。

従業員エンゲージメント向上では、「What(何が起きているか)」と「Why(なぜ起きているか)」を区別して考えることが重要です。

ある会社では、AIによる分析で研究部門の離職率が他部門の2倍であることが判明しました。しかし、給与水準や労働時間に大きな差はありません。労務担当者が研究者との対話を重ねた結果、問題の根本原因は「研究成果の評価基準が不明確で、キャリアパスが見えない」ことだとわかりました。

この発見により、同社は研究職専用の人事評価制度を新設し、技術者としてのキャリア開発プログラムを充実させました。結果として、研究部門の離職率は1年で半減しました。何より、「会社が研究者のことを真剣に考えてくれている」という従業員の声が聞かれるようになり、組織全体のエンゲージメント向上につながりました。

このように、AIによる客観的なデータ分析と人間による主観的な対話を組み合わせることで、表面的な症状ではなく根本原因にアプローチできます。重要なのは、データを「答え」として扱うのではなく、「問いを立てるための材料」として活用することです。

HRbase 労務×AIコラム

感情労働とコミュニケーション技術

AI技術が進歩すればするほど、労務担当者には「人間にしかできない」スキルの重要性が高まります。特に重要なのは、感情に寄り添う力、話し合いをまとめる力、そして成長を支援する力の3つです。これらは意識的に鍛えることで確実に向上させることができます。

感情労働への対処について、労務担当者は日常的に従業員の不満や悩みに向き合う必要があります。ハラスメントの相談、メンタルヘルスの不調、人間関係のトラブル──こうした問題への対応は、相当な精神的負担を伴います。

ある人材サービス業では、労務担当者の「共感疲労」(他者の痛みに共感しすぎて自分自身が疲弊すること)が深刻な問題となっていました。解決策として導入されたのが、「感情の境界線」を意識的に引く技術です。

具体的には、相談を受ける際に「この問題は相談者のものであり、私の問題ではない」と意識的に区別し、一定の心理的距離を保ちます。また、週1回のスーパービジョン(上司や専門家からの指導)を受け、感情的な負担を一人で抱え込まない仕組みを作りました。結果として、担当者の心理的負担が軽減され、より冷静で効果的な対応ができるようになったといいます。

ファシリテーション技術では、対立する意見をまとめ、建設的な議論に導く能力が求められます。労務担当者は、部門間の利害調整や、労使間の交渉など、複雑な人間関係の中で合意形成を図る機会が多いからです。

ある小売業では、店舗運営部門と本部スタッフ部門の間で、勤務シフトの組み方をめぐって深刻な対立が生じていました。店舗側は「現場の実情を理解していない」と主張し、本部側は「コンプライアンスを軽視している」と反発しました。労務担当者がファシリテーターとして調整に入りました。

成功のポイントは、最初に「双方とも、お客様に最高のサービスを提供したいという目標は同じ」という共通点を確認したことです。そのうえで、それぞれの立場の制約条件を整理し、「現場の柔軟性を保ちながら、法令遵守も確実に行う」という解決策を全員で検討しました。結果として、両部門が納得できる新しいシフト管理システムが構築されました。

コーチング・スキルは、従業員の自主的な成長を促すために不可欠です。AIがキャリアパスの選択肢を提示することはできても、一人ひとりの価値観や志向に合わせた個別支援は人間にしかできません。

あるIT企業では、優秀なエンジニアの離職を防ぐため、労務担当者が定期的な1on1面談を実施しています。重要なのは、単に話を聞くだけでなく、本人が自分自身の状況を客観視できるよう支援することです。「最近、仕事にやりがいを感じられない」という相談に対して、すぐに解決策を提示するのではなく、「どんな時にやりがいを感じていましたか?」「理想的な働き方はどのようなものですか?」といった質問を通じて、本人の気づきを促します。結果として、多くのエンジニアが自分なりのキャリア目標を明確にし、主体的に成長に取り組むようになりました。

HRbase 労務×AIコラム

戦略的パートナーとしての進化

AI時代の労務担当者は、単なる事務処理の担当者から、企業の戦略的価値創造に直接貢献する「人材投資のプロフェッショナル」へと進化しています。この変化は、労務部門の位置づけを根本的に変える可能性を秘めています。

人材開発の設計者として、労務担当者は組織全体の人材ポートフォリオを設計する役割を担います。ある製造業では、AI導入により生まれた時間を活用し、全社員のスキルマップを作成しました。現在のスキルレベル、業務で必要とされるスキル、将来的に必要になるであろうスキルを可視化し、個人別の育成計画を策定したのです。

この取り組みにより、「なんとなく」行われていた研修から、「戦略的な」人材育成へと転換しました。結果として、新技術への対応力が向上し、生産性が15%向上しました。重要なのは、このスキルマップが人事評価や配置転換の客観的根拠としても活用されることで、従業員の納得度も大幅に向上したことです。

組織文化の変革エージェントとしての役割も見逃せません。あるサービス業では、「従業員満足度を高めることで顧客満足度も向上する」という仮説のもと、労務担当者が組織文化改革のリーダーを務めました。

具体的には、現場での観察と従業員との対話から「心理的安全性」(失敗を恐れずに発言できる職場環境)の重要性に気づき、全社的な取り組みを開始しました。管理職向けの研修プログラムを企画し、部下との関わり方を根本的に見直したのです。1年後の従業員サーベイでは、「上司に気軽に相談できる」という項目のスコアが40%向上しました。同時に、顧客満足度も過去最高を記録しました。労務担当者の取り組みが、最終的に事業成果にまで影響を与えた好例です。

経営戦略への貢献という観点では、労務担当者が持つ現場の情報は、経営判断の精度を高める貴重な材料となります。ある小売業では、労務担当者が店舗回りで得た情報が新規出店戦略に活用されています。「この地域の従業員は通勤に1時間以上かけている人が多い」「競合他社の離職率が高く、経験者の採用が期待できる」といった情報は、立地選定や人員計画の重要な判断材料となります。労務担当者が単なる管理部門ではなく、事業戦略を支える情報収集部門としても機能している例です。

労務担当者の役割変化は、企業の人材戦略そのものを変革する力を持っています。重要なのは、この変化を積極的に受け入れ、新しいスキルの習得に取り組むことです。AI技術の進歩は止まりません。だからこそ、人間にしかできない価値を磨き続けることが、労務担当者の未来を決めるのです。

まとめ

AI技術の進歩は、労務担当者の仕事を奪うものではありません。むしろ、これまで事務作業に埋もれて発揮できなかった「人間らしい価値」を最大限に活かすチャンスを提供しています。

重要なのは、AIが得意な定型業務は積極的に任せ、人間にしかできない創造的で戦略的な業務に集中することです。現場に出て従業員と向き合い、データと対話を組み合わせて問題を予防し、感情に寄り添いながら成長を支援する。これらの活動を通じて、労務担当者は企業の持続的成長を支える「人材戦略のプロフェッショナル」へと進化できます。

変化への対応は決して容易ではありませんが、多くの企業で労務担当者が新しい役割に挑戦し、確実に成果を上げています。AIとの共存により、労務の仕事はより創造的で、より戦略的で、そしてより人間らしいものになっていきます。その変化の波に乗るか、取り残されるかは、今この瞬間の決断にかかっているのです。